呂翁という道士が邯鄲の茶屋で一休みしていた。そこに蘆生という男が現れ、道士に話しかけた、「男たるには、兵士となるのであれば功をなし大将に、朝廷に仕えるのであれば人心高くして宰相になるべきを、今の私は、畑仕事で精一杯の身である」と自分の腑甲斐無さを嘆いた。道士は「これで一眠りしなさい」と言って枕を差し出した。若者はそれをあてがうとすぐに眠りについた。夢をみた。「邯鄲の土地を離れて官吏の試験に合格し、名家の娘を妻にめとり、皇帝からは信頼を厚くして宰相にまでのぼりつめ、賢相の誉を高くして一生を終えた。ただ途中妬みや陰謀の策略にあい、自殺を試みるほどの苦しさを味わったり、引退して邯鄲に帰り、余生をゆっくりと送りたくも晩年においてさえ、すぐれた仕事ぶりの評価が高く、困難な仕事が山となって与えられ、疲れ切っていた」
 茶屋の主人の蒸し物が出来上がたという声にはっと目が醒めた。僅かな時間しか経っていなかった。
若者は悟った、栄枯盛衰はこの夢のように儚いものであると。心の迷いが消え晴れかな気持ちになって道士に礼を述べ、茶屋を去っていった。
ここで「邯鄲の枕」「邯鄲の夢」「一炊の夢」という言葉が生まれた、みな同じ意味である。




秋の虫カンタン

秋も深まったこの時節、夜はカンタンの鳴き声を楽しんである。
非常に澄んだ美しい鳴き声で、「リリリリリ・・・」と聞こえ声も大きくよく響く、翅をスピーカーのような形に広げ振動させて鳴くので大く響くのであろう。鳴く虫の女王と呼ばれている。
私の居間から良く聞こえ、毎年楽しんでいる。しかし最近外来種のオオマツムシと思われる鳴き声にかき消されて聞こえにくくなってゆくのが残念である、周りの木が大きく成長して背が高くなったのが原因かもしれない。


 玄関の扉に、カンタンらしきが止まっているのを見つけた、すわカンタンと、カンタンがこんなところにいるのは不思議だと思いながら、カメラを取りに走った。クローズアップで撮った。

残念ながらカンタンではなかった、最近非常に勢力を伸ばしている外来種のオオマツムシ
らしい。オオマツムシの鳴き声が優勢で、カンタンの声がかき消されているのが現状である。

日本人にとっては「儚さ」とか「もののあはれ」は心の琴線である。
秋の虫に「カンタン」と名をつけても不思議ではない。私は毎年カンタンの鳴き声を聞くと、
今年もまた秋が過ぎ去って行くのかと感じ、邯鄲の話を思い出すのである。
 

日本古典文学の有名な書き出しを2編綴ってみる、地位と身分とか立派な甍の屋敷といった
ものは、短い間の儚い夢だと悟している。
邯鄲の伝承と同じである。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」


追伸 カンタンの鳴き声を肴に晩酌 (2011年10月27日)

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 カンタン(邯鄲)という名の由来

の人々はカンタンの声を聞くと、秋の終わりを感じ、過ぎ去ってゆく秋を惜しんだのである。
惜しむというよりは儚さを感じこの虫を「カンタン」と名付けたのであろう。
「カンタン」は漢字で「邯鄲」と書く、難しい字である。中国河北省 邯鄲 の地名である。戦国時代趙国の首府であった、「邯鄲の枕」という伝説によってもよく知られている。

私は趣味で能面を打っている。「邯鄲」という能楽に使われる「邯鄲男」(かんたんおとこ)と名の付く能面がある。このような理由で、昆虫の「カンタン」との関係を知る機会を持っていた。

写真は拙作の「邯鄲男」である、悩み多く苦悩する青年をしかも気品高く表現しなくてはならない、結構打つのに難しい能面である。能楽で演じられる「邯鄲」の筋書きは、下記「邯鄲の枕」の言い伝えとほとんど同じである。

残念ながらこれはカンタン ではない オオマツムシ らしい