散歩道のお地蔵さま

 近くに真言宗の寺がある。墓は3面道に囲まれよく通る散歩道でもある。境内に2基の古
墳が確認できる、もう2基ほどあったようだが崩したという話も聞いた。

 墓と道の間には囲いがない、時々立ち止って墓誌を読むことがある。

明治・大正・昭和初期には、ずいぶんと多くの幼い子供が亡くなっている、

〇〇童子・童女 当才とか1才、2才とか刻まれ、小さなお地蔵さまが立てられている。
江戸時代の墓誌は見当たらないがもっとひどい状態であっただろう。

丁度母体や母乳で得られた免疫が切れる頃である,1〜2歳から高い熱をだしたり、流行の
病にもかかり始め、世の中のお母さん達は、驚き慌てて医師のところに駆けつけた経験を
お持ちであろう。

この頃は、衛生状態も悪く、抗生物質や高度治療の設備もなく、小児医学の水準も今ほど
ではなく、乳幼児の死亡率は大変高かったのである。

 この小さなお地蔵さまを眺めていると、生まれ出でまだ何も分らなく、ただお母さんに
すがっている純真無垢な幼い子供が亡くなった様子を思い浮かべ、目頭が熱くなってくる。
お母さんやお父さんがどんなに嘆き悲しんだことだろう。天上界に無事行ってお地蔵さま
に助けられ、守られることを願い、お傍で健やかに暮らせるようおすがりしたのであろう、
子供をだっこしたお地蔵さまも多く、親の思いがひしひしと伝わってくる。


 お地蔵さまは正式には地蔵菩薩の名を持つ菩薩さまである。袈裟を身に着け、白毫を有し
剃髪、右手に錫杖左手に如意宝珠を持つ。僧のようなお姿である。唯一地上界(娑婆)と天
上界を行き来する仏様である。お地蔵さま以外の仏様は天上界におわし、仏に帰依していた
人が亡くなった時だけ、如来さまが多くの菩薩さまを伴って天上界から来迎し、極楽浄土
へとお導きをする(その様子を描いた国宝の二十五菩薩来迎図などがある)。

お地蔵さまはいつも天上界と地上界を行き来し、地上に暮す人々に一切の苦悩を救うために
手を差し伸べる。また幼くして去った子は賽の河原で大変な苦労をすると伝えられ、このよ
うな幼子を救うのが唯一お地蔵菩薩さまでこの様子を現代に至っても「賽の河原地蔵和讃」
として語り継がれている。

 お地蔵さまは、庶民の間で時代や宗派を問わず深く信仰されている。今日まで脈々と息続
いている。


 いつもの散歩の道中に、祠を持ったお地蔵さまや野ざらしのお地蔵さまが点在している。

祠のなかで、花が供えられているのも見る。

赤いちゃんちゃんこやよだれかけが付けられ、帽子も被せられていることもある。これには諸説
があるが、

 娑婆にいる親が、自分が行くことのできない天上界にいる幼いわが子が、よだれで濡れたり不
潔になっていないか、寒くないのか案じ、お地蔵さんに託したのであろう、赤は幼い子供をあら
わす色であろう。父や母には、去ったわが子がいつまでも心のなかで生き続けているのである。

 

 人には、出会いがあれば必ず100%の別れがある。出会いの最も大きな出来事は我が子の誕
生や、大切な人との出会いであろう。別れは人の死であろう、これは人が背負った宿命・定めな
のである。先に生まれた人は先に去る、これが自然である。家族においてこれが逆転したときの
悲しみはほかにない。私も自然でありたいと願っている。とは言っても幼い子を残して先だった
親はどれほど無念であっただろうか、しかし自分の分身である子に命を託したのである、健やか
に成長し、
結婚して子が生まれる、命が続き伝わってゆく、それが一番の願いであろう。

人は誰も出会いを大切にし、別れを乗り越えて生きなければならないのである。

小さな古墳の上に建てられている祠とその中のお地蔵さま 年1回供養が行われる

道端の祠のお地蔵さま 
祠はコンクリートであるがもとは藁葺の木造
だったそうで、昭和10年代の道路・宅地化
のときこのような形で残されたと聞いた

道端の野ざらしのお地蔵さま

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