捨てられたお地蔵さんや庚申塚

 お地蔵さんや庚申塚は、建てられた時はそれぞれ一つ一つに理由と意味があり、願いが込められていたのであろう。

 時代と共に忘れ去られ、道路拡張工事や田畑の開墾整理やあるいは住宅地化の折、多くは何のためらいもなく捨てられたのであろう。しかし、この地方では写真のように、いつのまにか古墳の頂上に集められている、捨てるのをためらった関係者が運んだのであろう。倒れた時首が折れたお地蔵さんも見られる、せめて倒れているお地蔵さんを起こそうとしたが、とても重くて無理であった。

 

小さな古墳の上に集められた庚申塚

このお地蔵さまは倒れた時のショックであろう
首が折れている

この倒れたお地蔵さまには「明和二乙酉天七月二十四日」 の銘があるので 1765年に建立されたのである。明和元年から二年にかけて 当地では中山道伝馬騒動と言われる一揆が頻繁に起こり苦しい時代であったと思われる。なんらかの願いや救いを求めて建立されたのであろうか。

 母から聞いた話であるが、里近い山沿いの道端にお地蔵さまが建てられている。

旅人がこの地でひどい腹痛に苦しみながら亡くなったそうである。亡くなる時、私をここに埋めて小さなお地蔵さまを建ててほしい、このような腹痛から人々をお守りしたいと。腹痛に効くお地蔵さんと言われ伝わっている。

 私も念仏淵のお地蔵さまでその云われを紹介したが、お地蔵さまには、それぞれ建てられた時の理由や願いが込められている。

このような言い伝えは地方でよく聞かれる。 しかし地方といえども時代と共に人々から忘れ去られて行くものである。現代においては道路拡張工事や住宅地化の際、ほとんどが惜げもなく捨て去られるのであろう。


 最近の話である。私の郷里で、紀州熊野街道中辺路と大辺路の分かれ目付近に昔から建てられてる高さ180センチくらいの「右  きみゐてら」と刻また道標の石碑がある。

道路工事の際、無くなっているのに地元の人が気がつき、大騒ぎになった。調べたところ作業員が捨てたということであった。結局土砂の捨て場から掘り出され無事を得たが、こんな目立つ文化遺産的な石碑でも無動作に捨てられる今日である。

 古墳の上に残されているだけでも良しと思はなくてはならない。しかしこれらの古墳も崩される時一緒に捨てられる可能性は高い。

 最近近辺で崩される古墳を目の当たりに見ることが多い。

次回は、私が実際に見た「古墳はどのようにして崩されてゆくのか」についてつぶやいてみるつもりである。 

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次回 崩されてゆく古墳

倒れたまま放置されているお地蔵さま達

追伸 修理されたお地蔵さん

平成25年4月1日散歩の道中この古墳に上った、嬉しいことにこれら倒れたお地蔵さんは建てなおされ、台座に固定され収まっていた。、首の折れたお地蔵さんの首はもとに復元されていた。写真は3体であるが、倒れていたあと2体のお地蔵さんも台座に固定され立て直されていた。

 左 明和二乙酉の銘を持つお地蔵様
 右 首の折れていたい地蔵様