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日本人と虫        日本人ほど虫に親しんでいる国民は他にいないだろう


虫の鳴き声を愛で、過ぎ去った夏から秋を読み、繊細な季節感と移り行く季節の儚さまでも感じ取る。日本人独特の美意識やもののあわれの感覚である。

  古来から、万葉集にも平安王朝文学にもしばしば詠われている。日本人ほど虫に親しんでいる国民はなかろう。

最近、テレビ番組で、秋の虫について外国人の考えが放映されていた。多くは「虫の鳴き声」をノイズ以外に何も感じない、ほとんど気にかけないと言っている。

これら虫は節足動物門の昆虫綱に属し、現代生物学的に最も繁栄している種である、動物界のチャンピオンである。人が属する哺乳綱も繁栄しているが、足元にも及ばない。


 幼少のころ、キリギリスをよく川原に捕りに行った、虫籠に入れて自宅で鳴き声を楽しんだ。捕り方は葱の白い部分を5センチくらいの長さに切り、長い竹ヒゴの先にさし、鳴き声を頼りにそろりそろりと近づき、葱を近くに差し出す、たいてい葱に飛びついて齧りだす。一旦齧りだすと何をされようが動かない、葱ごと虫籠へという具合である。鈴虫の捕り方も大変ユニークで地方によって方法は違うと思う。外国人の虫に対する発言から外国にはこのような遊びや虫を飼って鳴き声を楽しむといった習慣はないように思う。

「虫の鳴き声」の表現も豊かだ。「リーンリーン」、「チンチロリン」、「コロコロコロ」、「ガチャガチャ」「スイッチョン」、「チョンギース」等 カタカナで示されれば虫が特定できる。

 蝉についてはあまり鳴き声を愛でている例はない、やかましいというイメージがある、しかしそれを逆に、より静けさを引き立てる表現がある、「しずけさや岩にしみいる蝉の声」日本人独特の卓越した表現である。

「虫の鳴き声」以外に訳の分らぬ虫達も様々な場面に登場する。ちょっと考えただけでも人を表現するのに「泣き虫」、「弱わ虫」、「おじゃま虫」。虫は小さく弱いものであると考えての表現に「もうこの人は虫の息だ」。生き物として人に認められない虫「虫も殺さない顔をしているのに」「3分の虫にも1分の魂」。特に「ケラ」は、名指しでとるにたらない虫となっている、「虫ケラのように」、「財布がオケラ」この財布については虫のケラがどうかはっきり分らない。
「空蝉」、「かげろう」といった儚さの文学的表現。


さらに非常におもしろいことに、日本人は皆一人一人体に虫を宿している、大体良い虫ではなさそうであるが。「腹の虫がおさまらない」、「虫の居所が悪い」、「虫が好かない」、「浮気の虫が出た」、幼児においては「かんの虫」。自分のもつ癖が出て失敗をしたとき「いつもの悪い虫がでた」虫のせいらしい。時には霊能力を持っているらしい「虫の知らせとか虫が知らせてきた」。

人の体に宿ってはいないが、独立したてキャラクターを持った「虫」、例えば「かねくい虫」、「蓼食う虫」、本に精通している人を「本の虫」。

未婚の女性に対しては、昔はごく普通に使われた「虫が付く」これは男性が「虫」である今風に言えば彼氏がいるであろうが若干今とはニュアンスが異なっているように思う。

他人の損や迷惑をかえりみず自分だけが得をするような人に「虫がよい」これらもおもしろう表現である。あいつは「虫が好かん」あいつの性格を虫が決め手になっているようだ。

教訓・諺めいた表現に「あぶはちとらず」、「飛んで火に入る夏の虫」、「頭隠して尻かくさず」ノミに例えた表現。「獅子身中の虫」人だけではなく獅子も虫を宿しているようである。

虫の性質からきた表現、「五月蠅」(うるさいと読む)、「ごまの蠅」、「シラミつぶし」、「ゴキブリ亭主」、「極楽トンボ」、昆虫ではないが「蜘蛛の子をちらす」。

他人の人権や決まりを無視して横暴な振る舞いをするたちの悪い人に対しては「ウジムシ、ダニ」。「ゲジゲジ」のような男。他人を蝕みながら自分だけ甘い汁を吸う人「寄生虫」。

 

いいかげんにしろ!しつこい!とお叱りを受けそうである。

 

 

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