スペインの闘牛と日本の華道・茶道 旅先で感じたこと
闘牛士が次々と登場して、その度に牛が殺されてゆく、初めて見たときは思わず目をそむけた。
牛は目隠しをされて待機し、急に取られ明るく眩しい闘牛場へと放たれる、これだけでも大変な興奮
状態となるだろう、更に背中に数本の銛が撃ち込まれ、それをぶら下げながら血だらけになって、
興奮のピークに達する。闘牛士は突進してきた牛を赤い布を手に間一発巧みにさばく、これが上手
だと観客から喝采をうける。最後に傷ついた牛の後頭部をサーベルで深く刺す、牛は一瞬に崩れる、
この時喝采、刺し具合が悪いと牛はあばれ苦しむ、この時ブーイング。これだけ書くと、残酷極まる
競技になってしまう。
観客は、総立ちになって、拍手喝采をしたり、ブーイングをしたり、大変な熱気につつまれる。
初めのうちはよく分からなかったが、回を重ねて見ているうちに、慣れはおそろしいもの、
どのタイミングで拍手をおくるか、ブーイングをおくるかよく分かってきた。
単に、牛を極度に興奮させ、人と牛の果し合いと言ってしまえばもともこもなくなってしまうだろう。
スペインにおいては1000年の伝統の上に立つ国技のようなもの。今のような形式になったのは、
18世紀初といわれている。ルーツはローマ時代(2000年前)の劇場で演じられたそうであるが、
更にはクレタ文明(4000年以上前)まで遡ると言われている、クレタでは一種の神事として神に
牛をお供えをするための儀式であったらしい。
遊牧民族にとっては、大切且つ神聖な牛を神に捧げる儀式が原型なのである。
このような長い伝統の重みであろうか、人と牛がじっと互いに睨みあっている時は、次の動きに移る
瞬間の静寂、間合いといった強い緊張感がひしひしと伝わって来るが、優雅さ・おごそかささえ漂よ
わせているように思った。ある種の芸術作品として、 人と牛の間で死をかけた一つの型・形式
あるいは礼儀や作法といったものを感じてるようになった。
遊牧民との環境や立場、考えはまるっきり違っているが、日本における茶道や華道のもつ美意識・
型・作法・礼儀といったものを重ねてみた、そのような点でお互いの伝統の重みというか、共通点を
見出したような気がしてならなかった。
余談
動物愛護運動と闘牛の衰退
2010年7月ついにスペインカタルーニャ州で、闘牛禁止が議決された、これにより2012年1月1日
からバルセロナの闘牛場は閉鎖、カタル−ニャ州から闘牛が消えることになる。
現地の報道によると、これには、動物愛護運動の盛り上がりもあるが、国民の闘牛離れ特に若い人たちからの、があると。それにカタルーニャは独自の言語・文化をもった地域で、独立を望んでいる人達も
多く、スペイン政府に対する一種の存在感を示す政治的配慮もあると言われている。
闘牛ファンは議会決議の波及を恐れており、闘牛はスペインの伝統的国技である、闘牛がいやなら
ない国に移り住めばよい。と発言しているそうである。しかし、動物愛護運動・子供教育に悪影響・国民
の闘牛離れ等、闘牛ファンには不利な方向に向かっているようであるが、熱狂的な闘牛ファンの多い
お国柄、ひと悶着おきそうな気がする。先を注目したい。
動物愛護の背景には、その殺し方と目的を問題視しているように思える。
食用に屠殺される豚・牛・羊・トナカイ等については、許されるのは,できるだけ苦痛を与えないように配慮されていることと、全遊牧民が有史以来生きるための貴重な伝統的食料であったことが考えられる、
もしそれも許せないのなら、日本の精進料理ということになろう。
考えてみれば、日本人のように伝統的に新鮮な魚類をご馳走とし、それに慣れきっている民族については、マグロのはえなわ、地獄漬け、踊り食い、活きしめ 、うなぎやドジョウのさばき等はあまり気にならないようである、屠殺の方法については、例えばマグロのはえなわは、長時間の苦痛を与え、しかも船に引き上げたときに活きしめを行う。これらはもちろん伝統的な食用が目的ということもあろうが、魚類ということで愛護の対象が哺乳類に限られているのかもしれない。
このような料理は、魚になじみの少ない民族や遊牧民族からみると、残酷で顔をそむけたくなり、のどが通らないかもしれない。しかし、日本においてもまだ口が動いているような鯛の活つくりやおどり食いの類 こういった料理はだんだんなくなってゆくであろう。
熱狂的ファンで埋め尽くされたマドリードの闘牛場
以上2011年3月1日