大黒屋光太夫とシベリア平原

 ヨーロッパ方面に旅行するとき、シベリア上空を飛行することが多い。亜音速なのに
6〜7時間は同じような景色が延々と続く、なんと人を寄せ付けない広大な平原である
ことか。全く人の手が入っておらず、河は自然に蛇行し、リズミカルな曲線をつくり、いたる
ところで三日月湖を形成している。私は何時間眺めていてもあきることはない。
 5月連休時期なのに、真っ白い凍りついた世界である。これが8月になると緑一面の
青々とした巨大な湿地帯となっている。10月にもなると、雲がかかり地上が
見えないことが多い、長い冬の始まりで、まもなく降雪を見るのであろう。
 

 機上から冬の凍りついた極寒の白い世界を眺めていると、いまさら大黒屋光太夫の偉大さと
執念に心が打たれる。
 江戸時代の後期、17人が遠州灘で遭難してロシアに漂着した。船頭の光太夫がサンクト
ペテルブルグの宮殿におはす時の女帝エカテリーナ2世に謁見を求め日本への帰還を実現
するため使節団の派遣をお願いする。
 真冬のシベリアを如何にして横断し、サンクトペテルブルグまで辿り着たか、長期間の苦難苦節
の連続であっただろう、道のりは片道10,000Km以上に達している。
 上空から眺めていると、おそらく夏季も、河川・沼・湿地に阻まれ、蚊やブユの攻撃で極めて困
難な条件であったのだろう。
 亡くなった方のほとんどは寒さによる壊血病や栄養障害であった。生き残った5人のうち一人は
凍傷で片足を切断して、帰国をあきらめた。凍傷は、その時は全く痛くもかゆもなく、暖かい家に
辿り着いたとき、急に痛みだし、肉がごっそりとはがれ落ちると記されている。
 女帝に謁見するため、イルクーツクからサンクトペテルブルグまで6、000Kmを真冬に往復して
いる。 事実、真冬に馬8頭の大型ソリを仕立て、雪上・氷上を走破している。途中ウラル山脈を
越えるため馬20頭に増やしたと記されている。
女帝とは約束が得られ、日本には女帝の使者としてアダム・ラックスマンを伴う形となった。
帰還のため、イルクーツク→ヤクーツク→オホーツクへと夏に移動している、夏だというのに帽子を
かぶり、マントで全身を被う、蚊はあたりが黒くなるほど多く、馬には毛並が分からなくなるほどた
かっていたと書かれている。 
 苦節十年の歳月を経て、17人のうち、生き残ったのは5人、3人は日本に帰還し、2人はロシアに
残っている。帰還した3人のうち1人は上陸直後亡くなっている。

これらの様子は、井上靖「おろしゃ国酔夢譚」原作で緒方拳主演で1992年に映画化され、広く知ら
れるよいになった、私はこの映画を見ていないが、以前に大黒屋光太夫本人の手記を読んだことが
あったのでそれをもとに概要を簡単に紹介してみる。

 

注  大黒屋光太夫(1751〜1828)

1782年光太夫を船頭とする17人は、正月の荷を積み、伊勢志摩を出帆し江戸に向かう。途中
遠州灘で遭難し、7か月の漂流後、アリューシャン列島アムチトカ島に漂着。ロシア船を待つこと
4年、その間毛皮商人からロシア語を学ぶ。結局あきらめ、難破船の残骸を集め自力造船、
カムチャッカに向かう、1か月かかり到着、この時点で生き残った者7人。ロシア商人から
イルクーツクの話を聞く、シベリア第一の人口1万人の都市であり、日本への帰還はその提督の
許可を得れば可能と。そこでカムチャッカ→オホーツク→ヤクーツク経由で4、000Kmの道のり
を8か月かけてイルクーツクに向かう。一人が凍傷のため片足を切断し帰国をあきらめている。
イルクーツクで提督に合うが、日本は鎖国中であり、エカテリ−ナ女帝の使節でもなければ不可
能。留まり日本語の教師をするよう勧告を受ける、同じように遭難してロシアにたどり着き日本語
の教師をしていたり現地の女性と結婚した日本人達が住んでいた。当時ロシアは日本への進出
も考えていたようで、情報を得るためこのような日本人を求めていたようである。
しかし光太夫は断固として断り、日本への帰還を望む。
そこでイルクーツクを拠点に、女帝エカテリナ2世に謁見をするための活動をする。
イルクーツクではロシアの博物学者キリル・ラクスマンと出会い彼の強力な援助を得る。
日本への使節団の派遣をお願いするためラクスマンを伴いイルクーツクから真冬のシベリア
平原6,000Kmを横断してサンクトペテルブルグを往復する。
 なぜアムチトカ島→カムチャッカ→樺太→日本へと帰らなかったか、徳川幕府の鎖国政策に
より帰還したとき打ち首になることが分かっていたからである。事実10年後に帰還したときは、
ロシア帝エカテリーナ2世からの使者としてアダム・ラックスマン(イルクーツクで援助をいただいた
キリル・ラクスマンの息子)に随行する形をとっていた。
苦節十年の歳月を経て、17人のうち、生き残ったのは5人、3人は日本に帰還し、2人はロシアに
残っている。帰還した3人のうち1人は上陸直後亡くなり、2人については、徳川幕府の鎖国政策に
より、蟄居を命じられた。その後2人には江戸で屋敷が与えられ、家族・親族との面会も許されて
いる。幕府もロシアの情報を切望しており、2人を優遇したようである。



余談

 観光旅行でエカテリーナ宮殿を訪問した。その時現地ガイドさんから聞いた話であるが、
映画でエカテリーナ2世と大黒屋光太夫の謁見場面は実場所で撮影がおこなわれた、
豆電球のローソクが灯ていて、ローソクでないと映画にならなく、日本の撮影隊はねばり強く
交渉したそうであるが、防火上ローソクを灯す許可がどうしてもおりなかった。
 仕方なく、日本から炎のゆらぐ電気ローソクを取り寄せてこれに付け替え撮影をした、
ロシア人はこんなものがあるのかと非常におどろいたそうで、終わってこれを寄付したところ
喜ばれ使われていたが、私が訪問した時は、是非ということで他に貸しているという話であった。

5月連休頃のシベリア  機上から

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