ホームページへ  タイトル目次へ

南方熊楠その6  熊楠とエコロジー

熊楠と神島  

熊楠とエコロジー

 熊楠は日本で初めてエコロジー(Eco-logy) という言葉を導入した。現在の意味よりもっと深い意味が込められていると思う。

前節(その5)で述べたが、熊楠の自然観・宇宙観は、東洋的仏教哲学を礎に、森羅万象すべて無駄なものは何一つなく、、それが

たとえ路傍の石であっても「霊」或いは「魂」を有していると考えているように思える。例えば鎮守の杜は、生物・無生物を問わず

全て魂を持ち、縁で結ばれ、萃点を持ち、お互い係わって一つの纏まった自然の生態系という小宇宙をつくっているのである。

しかもこの場所は、地域の人達にとっては、産土神のおはす鎮守の杜として、崇め信仰の対象であり、心の拠り所でもある。

樹が伐採されることは、熊楠にとっては我が身が切られるのと同じ苦痛であったに違いない。

 1906年神社合祀令が発令された、約10社をその中の有力神社1社に合祀する方針であった。つまり10分の1に減らすことである。その

裁量は県にまかされた。当時神社は国有であった、減らされた神社は地方自治体に払い下げられた。自治体によっては、鎮守の杜の大樹を

伐採し、それを売ってほとんど神社以外の財源とした。その伐採率のトップは三重県の90%以上、和歌山県の87%、因みに最低は

京都府の11%であったと報告されている。


 熊楠の神島の保護活動

 紀州田辺湾に浮かぶ小さな島「神島」については、  南方熊楠 その2  昭和天皇と熊楠  で述べたが

再度取り上げたい。神島(地方では「かしま」と読む)は、字のとおり神の島として、祠があり千数百年間、神職以外は通常立入ることは

ない。従って斧が入った事がなく太古のまま残されている。私は少年時代、湾内の海岸「扇が浜」から眺めていた、鬱蒼とした大樹で覆

われて、僅かな砂浜が見られ、秋には赤い紅葉樹も見られた、3〜4kmくらいの距離であっただろう。最も近い新庄村(現田辺市新庄町)

[鳥の巣]という場所から500m程沖合にあり、海で囲まれ孤立していること、田辺湾自体温暖な気候であり更に黒潮の支流が紐状に流れ

込んで突き当たっていること等が重なり、付近には亜熱帯系の珍しい海洋生物も豊富で、亜熱帯植物の北限種も多く、新種の動植物も発見

されており、固有の生態系を有する亜熱帯の貴重な島である。

熊楠はこの島について「昨今各国競うて研究発表する植物棲態学 eco-logy を、熊野で見るべき非常に好模範島」と称している。


 1906年に発令された「神社合祀令」により、早速新庄村は、神島神社を対岸の大潟神社に合祀した、神体の居なくなった島はただの島、

今までのタブーを破り、大樹を伐採して新庄小学校の改築費用に充てる計画が村議会で承認され、伐採が始まった。

 熊楠は激怒した。すぐさま猛烈な反対運動を開始した。地方新聞にも何回も神島の大切さを投稿し広く住民に訴えた、村長・村議会議員

地方の有力者とも会って説得にあたった。投獄されたこともあった、これは神社合祀令に賛成の県役人が田辺中学校(現田辺高校)に講演に

来た時、面会を求め赴いたところ阻止さた、強行突破して持っていた植物標本の入った信玄袋嚢を投げつけた。家宅侵入罪で逮捕され、

18日間の勾留が言い渡された。保釈金を払えば勾留は免れたそうだが、熊楠は拘留を選んだ。その間一心に書を読み耽り、構内では植物を

観察し、粘菌も発見している。釈放される時は、「ここへは誰も来ないし涼しくて静かだ、書を読むのいい環境だ、もう少し置いてほしい」

と言って、出るのを拒み、看守を困らせたそうである。

 このように、身を張った熊楠の努力により、伐採は中止された。熊楠はこれを機会に、神社合祀令を廃止しなければこのような愚行を阻止

できないと考え、具体的な活動を開始した。全国の宮司達や政府の高官、当時の県出身の国会議員にも働きかけ、地方新聞は勿論、全国規模

の有名新聞にも多く投稿して一般の人々にも鎮守の杜を守ることは如何に大切かを訴えた、なかでも、東京大学教授で植物の権威松村任三や

当時としては数少ない熊楠の理解者であった民俗学者で内閣法制局参事官の柳田國男に「南方二書」といわれる書簡を送り保護を訴えた、

特に柳田国男は自費で「南方二書」を印刷し、関係者に配布して熊楠の趣旨を伝え支援を惜しまなかった。

 このような運動が実を結び、世論と国会議員を動かし、ついに約10年後の1920年(大正9年)、貴族院で「神社合祀無益」が決議された。

全身全霊という言葉があるが、その通り懸けた情熱と行動力には深く感動し頭が下がる思いがする。


 地方の人達は、神島と熊野の杜が現存しているには熊楠のお蔭であると言っている、私もそう思う。


生物学者である昭和天皇もこの島に興味を持たれ探索を希望されていた。昭和4年(1929年)実現する運びとなった。


陛下は英国のNatureや欧米の学術誌で熊楠の論文を皇太子時代から読まれており、「日本にこのような生物学者がいたのか、


会ってみたいと」側近に話されていた。「神島」行幸が決まり、御意に沿ったとはいえ、無位無官の南方の御進講はいかがなものかと多く


反対したそうであるが、陛下の「南方に会いたい」との一言により、実現の運びとなった。


昭和4年(1929年)6月 お召の戦艦「長門」が田辺湾沖に停泊し、南方熊楠の待つ「神島」に上陸された。(時に陛下28歳 熊楠61歳)


 この記事が全国紙に大きく載り、天皇に御進講した熊楠の名は一躍全国に知れ渡った。また神島のことも全国に知られる結果となった。

このようなことも重なり、翌1930年に神島は和歌山県の天然記念物に指定された、併せて神島の昭和天皇の上陸地点に南紀行幸記念石碑が

建立され、南方熊楠が自詠自筆した

      「一枝も心して吹け沖つ風 わが天皇(すめろぎ)のめでましし森ぞ」    が刻まれた。


 その後、神島は1935(昭和10)年12月24日、国の史蹟名勝天然記念物の指定が決定した。熊楠は喜びのあまり書斎に行き、ありったけ自分の


知っている小唄や都々逸を歌ってはしゃぎ、ひと晩ふた晩祝い酒に浸り高いびきで眠りつづけたそうである。鎮守の杜は、自分の身であり


心でもあったのだ。


南紀地方では、神島や熊野の杜が守られ現存するのは、熊楠のお蔭だと言っている、私も同感である。



 熊楠没後の1962年(昭和37年)再度南紀を行幸された昭和天皇は、白浜から神島を見て熊楠との出会いを語られ、


      「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」    という歌を詠まれた。


昭和天皇の御製の中で、一般人の姓名が詠み込まれたものはこの歌以外にはないそうである、

互いの立場を越え、生物学者としての存在を認め合い尊敬し合っていたのであった。しかし日本国内では南方熊楠は生物学者


として認められず無視されていた、極少数の生物学者だけが理解し高く評価していたのである、昭和天皇はそおの一人であった。



熊野の杜は2004年熊野三山として世界遺産に登録され、神島と田辺湾の北側入口の天神崎(注)は2015年に熊野吉野国立公園に


新たに編入が決定された。


 現在、神島については、鳥の糞公害がひどく、多くの植物が枯れているそうで、対策に苦慮していると報告されている。         



 注 天神崎  田辺湾北の入り口に突き出た岬

 陸の動植物と海の動植物が、平たい岩礁をはさんで同居し、森・磯・海の三者が一体となって一つの生態系を作っており、豊かな自然が

残されている地域である。ほとんど私有地である。

 熊楠は、天神崎をよく散策した。そこに生息するで様々な海洋・陸上の動植物、地形などを観察しており、

「今の内に天神崎を保護地区にしないと、不動産屋に買収されて別荘が建てられるだろう」と危惧していたという。天神崎は後に熊楠の意を

汲んだ外山八郎氏等によって、日本のナショナルトラスト運動発祥の地となって守られるに至った。

 ナショナルトラスト運動は、文化遺産や自然環境を保護するため、広く募金を募り、対象を買取り、自治体等の公共団体を所有者・

管理者とする運動。

天神崎は熊楠が予想したとおり別荘地化の問題が持ち上がり、阻止するため、早くから運動が実行され、成果をあげていたので、

全国第一回ナショナルトラスト運動会議が開催された地となり、聖地・発祥の地とされている。

因みに天神崎の場合、購入済は対象地域約20haの3分の1くらい。しかし、2015年国立公園となったので、そのような開発は規制

されることなった。

 

高校時代、近所の見識者から次のような話を聞いたことがあった。

「旧制田辺中学校(現田辺高校)の先生が熊楠宅の離れを借りて生活していた。この先生屋敷内住んでいた白色の青大将

  (本州最大の蛇である、地方では「屋根通し」という、人家の納屋などでごく普通に見られた、たまに全身真っ白なのも見られ

  「しろ蛇」と呼ばれ神の使いと崇められていた)

を殺したという噂がたち、熊楠は烈火のごとく怒り、「白蛇の絵を描き供養せよ」と命じたそうで、先生も譲らず「そんなバカなこと出来るか」

と応じ、即屋敷を飛び出したという話」

 私は当時、熊楠ほどの学者がなぜこのような迷信じみたことを信じていたのか、疑問に思った。今思うに、熊楠にとっては、

杜の樹が伐採されるのは、我が身が切り刻まれるのと同じ苦痛であったに違いない、神の遣いとして信仰の対象とされている
白蛇が無残に


殺されること社の樹が伐採されるのもと同じであったのだろう。




                    次回  南方熊楠その7 最終章  



                               タイトル目次へ ホームページへ