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南方熊楠その7最終章 

  生前植物学者として日本で認められなかった熊楠  終わりにあたり

 
熊楠は当時欧米では、51篇にのぼるNature誌への学術論文の投稿、270編を超えるNotes&Queries誌への論説・論議

の投稿により、その見識・学説に、生物学者・民俗学者として東洋のミナカタは高い評価が得られていた。

生物学の分野では粘菌(変形菌)の分類学的な位置については、単に分類学的見地からではなく、広く生命・生態学的

な立場から論を進め、新しい分類学的位置ち付けを確立したこと等高く評価された。

当時の変形菌研究の世界的権威者の英国 アーサー・リスター氏からもこの件で賞賛を浴びている。

 しかし日本国では、昭和天皇や田中長三郎博士(米国の公的機関でも活躍、勲三等瑞宝章や旭日章受章)等極く

少数の生物学者が高く評価したのに対し、国内のでのアカデミーにおいては、このような功績は全く認められず

無視された。熊楠61歳の時、昭和天皇が紀州田辺湾内の神島に行幸の際、熊楠が進講されたとき、はじめて

植物学者南方熊楠の名は広く知られるに至った。しかし日本の植物学会では決して認めることはなかった。理由は、

当時、日本の植物学会は、分類学の権威者である牧野富太郎氏が大ボスとして君臨して牛耳っていた。牧野氏は、

日本の学会にあまり熱心でなかった熊楠が自分を無視したと思ったのだろうか、快く思っていなかったようだ、

次の2例で良くわかる。

 1.牧野氏が用あって、田辺地方に行く際、周りの者が熊楠に会うことを勧めたところ「南方は私に標本を送り

   考えを述べ意見を聞いている、私が師だ、子弟から会いに来るのが筋だろう」とご機嫌を損ねたそうである、

   一方熊楠は、牧野先生が近くに来られたのに、家内が病気で都合をとれず、お伺いできなかったこと、丁寧な

   詫び状を届けている。この詫び状牧野氏は長く保管していたそうである。

 2.熊楠の死から、10数日後に、一般誌「文藝春秋」に以下の内容を投稿し2か月後に発刊された。

   「南方君は往々新聞などでは世界の植物学界に巨大な足跡を印した大植物学者だと書かれまた世人の多くもそう

    信じているようだが、実は同君は大なる文学者でこそあったが決して大なる植物学者では無かった。

    植物ことに粘菌についてはそれはかなり研究せられたことはあったようだが、しからばそれについて刊行

    せられた一の成書かあるいは論文かがあるかというと私はまったくそれが存在しているかを知らない。

    …粘菌の発見について, Minakatella longifila Lister 一つの学名しか公にされていない。…南方君が

    不断あまり邦文では書かずその代りこれを欧文でつづり、断えず西洋で我が文章を発表しつつあったという

    人があり、また英国発行の”Nature”誌へも頻々と書かれつつあったようにいう人もある。按ずるに

    欧文で何かを書いて向こうの雑誌へ投書し発表した事は、同君が英国にいられたずっと昔には無論必ずあった

    事でもあったろうが、しかし今日に至るまで断えずそれを実行しつつ来たという事は果たして真乎、果たして

    証拠立てられ得る乎。」


 
 当時の国際的な社会学者の鶴見和子博士は、この記事について著書で触れている。

鶴見先生は、米国プリンストン大学で博士号を修得され、米国・日本の大学で教鞭をとられた方で、欧米・日本国の

アカデミーの様子もよく理解されている見識者である。 「日本のアカデミーの学者が、南方をどのように評価して

いたかをしるための一つのよい見本といえよう。それだけではない。外国語で自説を国外で発表した日本の学者が、

日本のアカデミーからどのような仕返しをうけたか、そのことがよくわかる文章である。」更に付け加え、南方が、

『ネイチャー』誌その他に帰国後英文の文章を投稿していないと疑っている箇所について 「帰国後の方が在英中

よりも投稿数が多い事実を示し、わたしのような浅学の者が、ちょっと調べればすぐわかることを、どうして牧野富太郎

のような大学者は、調べもせずに、他人を悪しざまに、しかもその人が死んでしまって、反証があげられないことを

承知のうえで、罵言するのであろうか」。

 私は、鶴見先生が嘆いたのは、日本のアカデミーのあり方であったのだろう、牧野氏を頂点とした植物学アカデミー

を一例として、権威のある人の言葉や行動を反論できないまま受け入れなければならない日本の社会を嘆いたのであろう。

広い視野に立った国際的な学者である鶴見のこと、身をもって感じていたのだろう。このような体質は、今だに

現在社会においても脈々と受け継がれている。最近新聞をにぎわした書道界や絵画彫刻といった芸術界も然りである。


私は、牧野先生のファンであり、著書も読んでいた、尊敬もしていた。しかしこの文藝春秋の内容を知り、がっか

りした。熊楠の死を待っていたとしか思えない、生前なら反論を受け恥をかくことを恐れていたのではないかと勘ぐり

たくなる。オランダ第一の東洋学者グスタヴ・シュレツゲルが、熊楠の名声を面白くなかったのか、反論をしたり、

嫌がらせとしか思えないような難題や難問を投げかけた。熊楠はこれに対して和漢洋の文献を縦横無尽に駆使して、

ぐうの音もでないまでにことごとく論破したエピソードもある。


 この文藝春秋の記事により、熊楠が植物学者として認知されるのが30年遅れたと言われている。


私は、牧野先生のファンであり、著書も読んでいた、尊敬もしていた。しかしこの文藝春秋の内容を知り、がっか

りした一人である。

 
 柳田国男氏は、民俗学の確立について熊楠の影響を強く受けているといわれている、

熊楠の自然保護運動(神社合祀令の廃止運動)については、惜しみのないえ支援をしている、論説の交換も多く交わし

ている、しかし次第に考えの違いが目立って来て、袂を分けていたが、互いに尊敬しあっていた。

熊楠の追悼文を出している。南方熊楠の著作については、断片的で結論への導きは足りないといわれているが、

単なる断片ではなく、そこには因果関係で結ばれた大きなの可能性をもっているといった趣旨を述べているし、

「我々の仲間はみんな日本民俗学最大の恩人として尊敬している」とも述べ、『日本人の可能性の極限』と最大級

の称賛をし、『南方熊楠全集』の出版を強く推奨している。



   終わりにあたり

 私の産まれ育った場所が南方熊楠邸のすぐ近だったので、近所に住んでいる人々や学校の先生達から直接聞いた

話をもとに、身近だった南方熊楠 と言う見出しから、同じような内容を繰り返したり、冗長な内容を縷々述べて

しまったが、終わりに当たって、父と母について少し記しておきたい。

 父は退職後、20年以上にわたりボランティア活動で熊楠邸に通い、熊楠の収集した植物の標本整理、蔵書の

整理等と、特に「南方熊楠全集 平凡社」」の編纂には力を入れていた。母は熊楠の長女「南方文枝」さんとは

田辺高等女学校の同期生で、二人は友人付き合いの範囲が狭かったと聞いたがそのなかで大変親しい友人であった

そうで、互いの家を訪問し合っていたと聞いている。文枝さんの結婚話が出た時、相手方が母に様子を聞きにきた

そうで(当時は知人を頼り素行調査が普通であった)「文枝さんは、もの静かな奥ゆかしい方で、きっといいお嫁さん

になるでしょう」と答えたそうで、その方が夫君である。

 
                                           以上


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