法隆寺夢殿 救世観音の伝説

今でも秘仏である。しかし年2回、春季と秋季に開帳されている。お堂の外から格子越しに拝観することができる。私もこの日に合わせて奈良を訪れることが多い。お顔を見つめていると、いつも何だか魂が吸い込まれてゆくような神秘感を味わっている。好きな仏像の一つである。

最近は、お堂の中はIEDで照明されていて、はっきりとお姿を拝観することができるようになった、それまでは、長い時間陣取って暗さに目を慣らしながらオペラグラスで拝観させて頂いていた。
時間が経つにつれて少しずつ移動ができ、正面の一等席を確保することができた。
この時節、修学旅行生が団体で訪れることが多い。席をゆずってあげたいが、一旦離れると、目を慣らすのに15分くらいはかかるので、すまないと心で侘びながら居座り続けた。今は席をあけ、最後尾についてもう一度並び直している。

飛鳥時代の仏像で、聖徳太子を等身大に写した仏像とも言われ、千年近い前から秘仏(異説もある)となっていた、代々の住職も見ることはできなかった。

  明治17年、岡倉天心とフェノロサが、寺の僧侶全員猛反対の中、政府の文化財調査の許可を楯に押し切って開帳した。晒木綿で幾重にも巻かれていて、その長さ150丈(450メートル)に達していた、大変な苦労をしてほどいたそうである。
現れたのは、極めて保存状態の良い等身大の、古拙微笑をたたえ金箔に輝く飛鳥仏であった。
立ち会った人々は愕然とさせた。フェノロサは感想として「驚嘆すべき世界無比の彫像、東洋の神秘アルカイックスマイル(古拙微笑)の神髄」と述べている。

このような布でまかれた秘仏は他の仏閣にもあり、解いた時、木炭一片が現れた例もあったそうである。


  記録によると、救世観音の修理は過去2回あった、一つは鎌倉時代、一つは江戸時代。いずれも仏本体と厨子が修理された。その際、修理者は救世観音のお姿を拝見しているはずである。

  鎌倉時代の修理の時の言い伝えを中学時代に読んだことがある。うろ憶えなので、人名、数字等あるいは粗筋そのものもおぼつかない、私の創作も若干入っていると思うが。

『鎌倉時代切っての名工「亀吉」が厨子修理の命を受けた。厨子を開いた。
簾の向こうの救世観音が
現れた。お顔が合った瞬間、衝撃のあまり全身が氷ついた。
まるで金縛りにあったように動けなかった。
厨子の修理を無事終えて、「生涯をかけてあのお姿を彫る」と心に決めた、来る日も
来る日も一心不乱に彫り続けた。お顔が気にいらない、いつまでたっても満足すべき

お顔には到達できなかった。とうとう10年の歳月が経った。亀吉の額には深い皺が
刻まれていた。彫った仏頭250余体「人の技ではない、生まれかわって身も心も改
めもう一度やり直す」。
周りに仏頭を積み、火を放った。身を焦がしながら、合掌して、僅かに微笑みをたた
えている顔は、まるで救世観音のお顔のようであった』。

晒木綿で巻かれていた訳であるが、棉布がこの世に出たのは、7,000年前のインダス文明からだそうで、日本に現れたのは、「日本後記」によると、799年に崑崙人(インド人)が愛知県三河に漂着した時、綿布を身に着けていた、持っていた壺には綿花の種が入っていたそうで、同人が全国に普及させるべく指導をしたと伝えている。しかし普及せず、1年くらいで絶えたようである。その後室町時代に中国明との交易で輸入され、大変な高級品であった。戦国時代以降になると日本でも栽培されたそうである。

救世観音の綿布を調べれば、いつの時代に巻かれたか推察可能であろう、少なくとも室町時代以前ではあり得ないと思っている。フェノロサがほどいた晒木綿は、当時から遡って200年前の江戸時代に巻かれたという説もある。

上述大工亀吉の伝説によると、鎌倉時代には布で巻かれていたのではなく、簾一枚ということになる。

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