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奈良大仏さまのお顔を取り替えたい

奈良東大寺大仏さまのお顔はどうも気にいらない。

こんなことを言ったら「ばち」が当たりそうであるが。

建立当時の面影は、おそらく天平時代独特の、研ぎ澄まされた完成の美を持ち、ある種の厳しさ

を漂わせた精神的にも強く訴えてくるお顔であっただろう。

今の大仏さまのお顔には当時の面影はない。

色々な人々の知恵を出し合って、天平のお顔を復元してすげ代えてみてはどうか。

きっと素晴らしい大仏さまを拝むことになるだろうと想像している。

このようなお顔のすげ代えの実現は絶望的ではあろうが、もし可能な方向に話が進み、

有志を募り
広く募金をするようなことになれば私も寄進したい。

建立当時のお顔については、その道の研究者達にとっても、非常に興味ある問題のようである。

完全な資料がなく、当時の大仏様が信貴山に伝わる縁起絵巻(国宝)に描かれている、

これが図に残る唯一の資料である、私はこの図はかなり正確な描写であると思っている。

非常に参考になる資料である。

想像で復元した様子をテレビで放映されたこともある、

ここでは信貴山の縁起絵巻を参考に、具体的なモデルとして、東大寺三月堂の

天平時代の「帝釈天」を挙げていたように記憶している。

私は、この帝釈天は、顔がやや茫洋とした中国系のように思えてならない、

もっと同堂の日光や月光菩薩系に近かったのではないかと勝手に想像している。

モデルとして、東大寺に伝わる弥勒仏坐像を挙げている専門家もおられる。

ある大学の研究で、文献に記されている寸法データをもとに、コンピュータ

上で復元した結果、創建当時のお顔は、もっと細く長かったと報告されている、これを

眺めていると(鮮明な画像ではなかったのではっきり分らなかったが)、お顔は少し前

の時代の輪郭と思えてならない、天平時代のとは違和感を持っている。

興味つきないテーマである。

 

大仏さま受難の歴史

752年に開眼された。大仏さまは金鍍金を施され金色に輝き、大仏殿は現在の1.5

あり、まさに「青丹よし」の絢爛豪華な極彩色に包まれ、左右には7重の塔が

建てられていた。当時の人々の度胆を抜いたであろう。

 

平安時代に、平清盛の命を受けた平重衡の焼き討ちに遭い、伽藍は消滅して、大仏さまは首と

両腕が溶けてなくなった痛ましいお姿となったと言われている。

(奇跡的に三月堂・正倉院は残ったと伝えられている)。この時当時奈良寺院のほとんどが

焼失し、興福寺は壊滅した。

 

東大寺は、鎌倉時代に修復されている。大仏さまも復元された。

仏像彫刻においては、鎌倉時代は「ルネッサンス」であって、まさに「天平に帰れ」が

テーマであったのだろう。

従って、鎌倉時代の復元は、おそらく強く天平時代を意識したお顔であっただろう。

記録によると、お顔と腕の修復を指導したのは、当時日本に滞在していた鋳造の高度技術を

持っていた中国宋の商人で、短期間で修復を終えたと伝えられている、ただ顔は中国の唐を

引き継ぐもので、創建当時の顔とは雰囲気が違っていていると人々は違和感をもったようである。

一方巨大な、二体の脇侍や四天王像は運慶一派が担当したと伝えられている。凄かったに違いない。

これがまた、戦国時代の1567年に焼き討ちに遭い、大仏殿もろともすべて焼失し、

平重衡の焼き討ちよりひどい状態であったと伝えられている。誠に残念である。

これより100年余、大仏さまは肩から上がないまま野ざらしで放置されていた。

元禄時代の1692年に修理が終わり、開眼された。大仏殿もその後当時より小ぶりで建てられた。

共に現在我々が拝観しているものである。

江戸時代には、どうも創建当時の復元そのものを嫌いその時の流行形式を取り入れることに興

味を持っていたように思えてならない。大仏殿の軒唐破風もそうである、当時の流行形式である。

そのような訳で私は現代の大仏殿にも違和感を持っている。

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