赤城姫を打とう

創作能面 「赤城姫」 

 

 創作能面というのはあり得ないだろう。既に完成された作品を如何に忠実に写すかの世界である。ここが絵画  や彫刻といった芸術の世界とは根本的に異なっている。例えば、ダビンチの「モナリザ」を見分けがつかないほどに模写出来たとして、それを展示会に出品しても、賞を獲得することは出来ない。

  しかし能面の世界では例えば室町時代金剛孫次郎の「おもかげ」を見分けがつかないほどに写し、展示会に出展したなら絶賛を浴びて第一席に選されるであろう。

 そのような訳で、「赤城姫」のような創作面と下記のストリーからしても、能楽とはまず認められないであろう

しかし最近ある著名能家の第一人者が、東南アジアの面師にその伝統手法により狐系の面の製作を依頼し若干の修正を加え、創作的な能を演じた様子をテレビで放映されたことがあった。能の世界においてもこのような、伝統の上に立った新しい試みがなされようとしていることは素晴らしいことだと思っている。そのような積み重ねが能を多くの世界の人々に理解され親しまれることに繋がるのであろう。


赤城山の伝承による「赤城姫」の物語


 大昔の話である。黒桧の尾根(後の赤城)の「おおむかぜ」と男体山麓の「おおへび」が、男体の麓で一騎打ちの決戦をすることになった。結果「おおへび」は敗れて逃げかえった。勝利に有頂天になりおたけりを挙げているすきを狙って、「おおへび」は弓の名手をこっそり助太刀として連れてきて、射させた。矢は事見眼に命中した。「卑怯者めが」と岩をも割れんばかりの大声でわめきながら、黒桧の尾根へと帰って行った。尾根には血は飛び散り、辺りの木々を赤く 染めた、それ以来この尾根を「赤木」と呼ばれるようになり、いつしか「赤城」の漢字が当てはめられた。戦いの場所は「戦場ヶ原」と呼ばれるようになった。

 

  腹の虫が収まらない「おおむかぜ」は、復讐するために日夜修業を重ね、ついに火山からいつでも火を噴かせる術をものにした。試した火元の名残が小沼の火口湖であった。このとき流れ下った岩は、岩上稲荷神社の飛び石であり、敷島公園の艶が岩と伝えられている。

 「よし、これで男体の山に火を噴かせ火の海にして卑怯者の息の根をとめてやる」と勇んで発とうとしたとき、

にわかに暗雲がたち込め、雷鳴が轟き辺り一面真っ暗になった。暗闇の中に一条の光が射し、光に包まれ青白く照らされた赤城の女神「赤城姫」の姿が現れた。

 「これおおむかぜよ、復讐に行ってはならぬ、「おおへび」は卑怯を恥じて姿を隠しているではないか。そなたの術を使えば、男体の山と一帯は火の海となり、麓に住む多くの人々に難儀が振りかかる。あの一帯は竜の化身として伝えられる二荒(ふたら)の神がおはす所である、きっと天罰が下されるであろう。もし私に逆らうのなら、そなたをこの場で石にして大沼の底に沈めるであろう」。さすがの「おおむかぜ」も「分りました」と従う他にすべはなかった。

 「そなたにはこの赤城の尾根を与えよう、大沼の主となって、末永く辺りの人達を災害から守るように」

それ以来、赤城山麓は日の国の中でも一番自然災害の少ない場所となった。


  人々は赤城姫の現れたところに祠を建てた、それが赤城神社となったと伝えられている。

 千数百年の月日が流れ、明治の世になった、京都から江戸に遷都をすることに決めた政府は、江戸を東の京都「東京都」と名を変えた。  しかし、この地は100年に1回決まって大地震が起こるし、大火、洪水もしばしばおこる。一番少ない赤城山麓に首府を建設すべきという話が出るほどであった。

 「おおむかぜ」は赤城姫の言いつけを今に至っても守り続けているのである。

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