第六感について

 人には五感が備わっている。「視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚」である。

 般若心経には2回の叙述がある。「無 眼耳鼻舌身 意」五感を無と意で挟んでいる。意は感覚とは異なった「意識」のようなもので

経典では、これらは「無」即ち「空」である、と説いている。次の叙述は「無 声色香味触 法」であり、同じような内容を繰り返す

ことにより内容を強調している、このよう強調はよく使われている「色不意空 空不意色 色即是空 空即是空」といった具合。

五感は、古代インドで大乗仏教の経典として大般若心経が完成された紀元前前後には、このような形で諭された古い歴史をもつ。

五感の他にもう一つの感覚「第六感」があるという話はしばしば聞く、例えば「虫の知らせ・霊感・第六感が働いた」とか、

科学的にはあり得ないことである。

 しかし中学校時代には、第六感を何となく肯定していたように思う。

中学校は、通常の道路からT字路を折れ曲がりまっすぐに200mほどの一本道を歩み、突き当たりの丘の麓に位置している、脇道は

ない、行き止まりである。時々下校時に学友達と一本道を帰らずに、背後の丘によじ登り、尾根つたいに帰ることもある、途中自生して

いる山桃の実を取って食べて口を赤くしことも多くあった、丘の終わりは、平家物語や源平盛衰記に記されている由緒ある熊野権現

今宮別当 闘鶏神社である、今にして思えば多分そのあたりは経塚で立ち入り禁止区域であったと思うが、当時はそんなことを知らず、

天下御免のふるまいであった。

話はそれたが、中学校に通じる200mの突き当りの道と水田を隔て平行に40mほど離れた一本道があった、この道も同じ丘で突き当

りとなっていて、そこには屠殺場があった。中学校とは隣合わせである。登校・下校時には牛が引かれ屠殺場へと向かっている光景がよく

見られた。牛はすごく抵抗をしている、大人2人掛かりでやっと無理やり引っぱている感じであった。僕達はそれを見て、牛の第六感で

殺されに行くのが判っているのだろうと話したものだ、当時はこのように第六感という言葉を自然に使いあたかも自身で体験したように

話題に載せることが多かった、何か本気で信じているようであった。

 今考えると、動物というのは、人に比べて桁はずれの五感能力を持っている場合が多い、よく知られている例では、例えば犬の鼻つまり

臭覚は人の100万倍〜1億倍とも言われており、その能力を麻薬犬や警察犬として利用しているし、豚もトリフを探す時にそのすぐれた

臭覚を利用しているのである。鮭の回帰は産まれた川の水の臭いと言われるが、判別するのに、人の100万倍或いはそれ以上の桁違いの

能力を持つことになる。その他の例も枚挙に遑がない。

 牛とて人をはるかに超える臭覚の能力をもっているのだろう、人には判別できない僅かな自分達の血の匂いや死臭を感知し、本能的に

避けようとしているているのであろう。


 古生代に、脊椎動物が海中から陸上へと生息域を広げた、このような進化を遂げた一つの条件として、糞尿を蓄える能力が必須であった。

海中なら垂れ流しでもよかったが、陸上となるとそうはゆかない、上位の肉食動物にその臭いを辿って居場所が突き止められ捕獲される

からである、膀胱や直腸のような貯蔵器官を発達させた。このような時代からも、臭覚の能力は現代人には遥に及ばない能力を持っていた

のであろう。


 臭覚に限らず、視覚についてもダチョウや猛禽類は人とは桁違いの能力を持つと言われているし、その他の感覚においても想像を超える

センシング能力を持った生命体も存在するであろう。



                                        

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